稼勢の蛭子さん

坂本八幡神社の境内に新しい神殿が鎮座し、その御神札に「蛭子神社」と明記されています。

稼勢山中腹には、昭和の中頃まで6戸程の集落(稼勢部落)がありました。稼勢山の頂上には蛭子神社のお社があり、少し東にさがった境内の入口には、丸木で作った 鳥居が建ち、さすが神域の気配がただよっていました

その昔、降り続く豪雨のために山は荒れはて、畑ものはみのらず、お百姓は困り果 てて、蛭子さまに「1日も早く晴らせたまえ。」と、連日のようにお祈りを続けました。しかし、雨はいっこうにやむ気配もなく降り続き、山や畑は荒れるばかりで、 人々の熱心なお祈りもいっこうに効きめがありません。

ついに、ごうをにやしたお百姓の一人は、ご神体をかかえて山をおり、濁流のうず巻く勝浦川に「頼りがいのない神よ、去りたまえ。」と、投げ捨ててしまいました。ご神体は、濁流にもまれながら流れに流れて、丈六(徳島市)の川原に着き、とある人に拾われて、通町(徳島市)のえびす神社にまつられて、今のように繁盛するようになったと言われています。

その後、どのようにして坂本の稼勢山に再度鎮座されたのかわかりませんが、かつては栄えた稼勢部落も過疎の波にはさからいきれず、一軒減り二軒減って、この神をまつることもおぼつかなくなり、とうとう蛭子さんも下山することに決まり、氏子の寄進で立派な神殿がつくられたのが昭和51年7月で、それからは坂本八幡神社の一角 で、永遠に人々からお参りされるようになりました。

『勝浦の民話と伝説』より